ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書 2月12日
2010年2月14日 コメントを残す
ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書
2010年2月12日3時30分
ロッキード事件をめぐり「MOMIKESU」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館
Post-polio Syndrome, Power Generation
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ロッキード事件をめぐり「MOMIKESU」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館
2010年1月22日 コメントを残す
僕が法務省の副大臣をしていたときにホリエモン事件があった。そのときにすごく気になったのが、XXXという供述をしているというニュースが毎日のように新聞やテレビで流れたことだ。なぜ取り調べの供述が外に漏れるのか、取り調べをした検事の責任はどうなっているのかということを秘書官に調べさせた。秘書官は検察庁にいくわけにはいかないから、法務省の幹部に副大臣がこう言っていると聞きに行ったのだろう。戻ってきた答えは『接見した弁護士が漏らしているのではないか』
当時の杉浦法務大臣は、さらに「検察の聞きたいような供述をするとすぐに外に出られるけれど、そうでないとなかなか出られない」という状況もおかしいと、いくつかのことを検討させた。そのうちに小泉内閣が総辞職した。
最近の石川某がこういう供述をしているという報道は、明らかにおかしい。
日本の司法制度では、有罪が確定するまでは無罪である。被疑者の段階で、あたかも被疑者が悪人であるというような世論を作らんが為のリークを検察がするのは間違っている。(そんなリークをする弁護士は懲戒の対象になるかもしれない)。被疑者の人権問題になりかねない。
検察のリークがほしいマスコミは、まるで飼い主からえさをもらう犬のように、飼い主には吠えず、ただ気に入られようとするあまりにしっぽをちぎれんばかりに振ることになる。検察のリークで紙面や番組を作っている新聞やテレビに検察批判ができるのか。検察がもし間違ったことをしたときに、マスコミがどれだけそれを報道できるのか。
一部のマスコミはそれを報道の自由だという。接見した弁護士が漏らしているという検察と同じではないか。今回の事件で、検察のリークを批判し、検証したマスコミがあったか。記者クラブなる既得権にしがみつき、取材対象となあなあになっているマスコミが報道の自由などという錦の御旗をふりかざすべきではない。
検察のリークがあったと思われる場合には、法務大臣が検事総長なりに記者会見を開かせ、そうした事実があったかどうかを確認させるべきだ。もしそうした供述はなかったというならば、その後、裁判でそれに反する供述は使えなくなるし、そうした供述があったというならば、取り調べた検事が処罰されなければならない。
(中略)
法務副大臣時代に、裁判所から法務省に来た裁判官が、民事局長などの職に就き、入札ルールをねじ曲げて民事法務協会に業務を発注しているのを見て唖然とした。
官製談合をやっている人間が裁判官として裁判所に戻るのだ。しかも、ほとんどそうした問題を法務省の記者クラブは追及してこなかった。
裁判員制度が始まったことでもあるし、日本の司法制度をもう一度きちんとあるべき姿にしていく必要がある。
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・河野太郎議員はもっと早い時点でこういうことを市民に情報公開すべきだったのではないか。でも、いまからでも遅くない。与野党一緒になって緊急に改革に動くべきだ。小沢一郎氏の問題とは関係ない。
・検察の逮捕状請求を差し戻す裁判官は殆どいないという現状はほんとうにおかしい。しかもこれが知られていない。これでは検察(行政)と裁判所(司法)が談合しているといわれてもしょうがない。1945年の敗戦まで検察と裁判所が同じ司法に属してたという過去の亡霊が今も生きているわけだ。
・裁判官と検察官が両方とも法務省に出向して、法務省で仲間として仕事をする。関係省庁は利点が多いというだろうが、何かおかしい。談合の素地をつくっているのだ。
・既に2回参議院を通過している「取調べの可視化法案」を早急に通すことが改革に役立つだろう。これも小沢氏とは関係ない。でも、この「取り調べ可視化法案」の通過こそが検察の最も恐れるもので、これを潰したいのだろう。
・検察の逮捕状請求を差し戻す裁判官がいない状態で、その上、検察が起訴した裁判では有罪になる割合が99.5%とのこと。これでは、検察と裁判所の談合と受け取られても当然であろう。何も知らなかったが、「司法改革」の意味がやっとわかってきた。
・「マスゴミは情報を有する検察にひざまずき、しっぽを振る犬である」、しかし、記者の仕事から、情報をもつ検察にどうしても踊らされてしまうのは宿命ともいえる。マスゴミよりも検察、裁判所の改革が必要だろう。
2010年1月22日 コメントを残す
http://opinion.infoseek.co.jp/article/721 (ここに6本あります)
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・ジャーナリスト:民主党(小沢一郎氏)の準備している法案は法務省(検察はその一部門)のトラの尾を踏んでいる。①取調べの可視化(すでに参議院では2回可決されている) ②検事総長を民間人とする ③外国人へ地方政治参政権を与える ④検察庁をチェックする委員会の設置。
・メディア担当者:メディアは情報を取って幾らなので、リークに飛びつくなといっても無理です。それをしない事件記者は社内で落ちこぼれになる。そのため検察と記者とのつながりが深くなり、どうしても検察のリークに利用される。これは、こういう宿命にあるとしかいいようがない。昔も今も変らない。
・ジャーナリスト:司法記者クラブがあるために検察のリークに踊らされるのではないかとの質問には、私は司法記者クラブが無くなってもあまり変りないと思う。基本的に、記者という者は情報源と無意識のうちに一体化してしまい、気がつくと情報を握っている人に対してひざまずいている。そのため、検察がメディアを利用しようとすれば事件記者はどうしても利用されてしまうという体質がある。だから、司法記者クラブがあるかないかはあまり関係ないように思う。
・メディア担当者:検察はこれまでは報道に色々文句をつけたが、今回は、「郷原弁護士をマスコミに出すな」と要求するぐらいで報道と一緒になろうとしている。それだけ検察は必死なのであろう。
・ジャーナリスト:検察は正義感から動いていることは確かである。記者クラブに出入りしている記者も同じ正義感で動いている。しかし、検察は5-6億円の裏金を作り出してそれを交際費と称して飲み食いに使ってきたことも事実で(三井環事件での口封じ)、残念ながら「目くそ・鼻くそ」なのを知るべきだ。
・担当検事の一人:今回のリークはあまりにもひどすぎるな-(実話;笑)
・国会議員:戦後直ぐにGHQの命令で「隠匿物資の摘発のために設置された」東京地検特捜部は、すでにその設立目的を終了しているので解散するのが当然である。
(遊水地)
2010年1月21日 コメントを残す
新党大地の鈴木宗男代表は16日、東京・日比谷公会堂で行われた民主党定期党大会で来賓としてあいさつし、小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐって元秘書で衆議院議員の石川知裕氏らが逮捕されたことに関連して、自身の経験を踏まえながら検察を痛烈に批判した。党大会で行われた鈴木代表のあいさつをノーカットで配信。
昨年の衆議院議員総選挙前から、よく分からない秘書の逮捕が続く。普通の人にとって「逮捕」は一人の人格の否定である。家族がいる、学校に通う子供がいる、年老いた親がいる。4畳程度の拘置所で過ごす恐ろしさは経験した人の書籍に詳しい。鈴木宗男議員は経験者である。
こういう「逮捕」という権限を検察だけが有する。民主的な組織(製品の品質の保証でも同じであるが)では、権限を有する組織・人には必ず責任がともなう。いわゆる、Authority and Responsibility である。検察が「逮捕」する権限を広く解釈したときには、(または、別件逮捕を使うなどのやり方をした場合には)、検察の責任の厳密な範囲はどのように文書化されている(具体的に)のであろうか?
検察が確固たる証拠をすでに固めているのかもしれない。しかし、そのこととは関係なく、検察の責任の問題・範囲を具体的に決めた文書を公開しておかなければこれは民主的とは言えない。個人的な見解からは、何処の官僚も権限だけは使うが責任の意識は自覚したことがなさそうである。
2010年1月18日 コメントを残す
テーマ:政治
なぜ小沢一郎は検察の事情聴取に応じないのか。マスメディアは一本調子に批判する。
実のところ、その理由くらい、ジャーナリストなら分かっているはずだ。事情聴取という、検察の用意した舞台に上がりたくないというのが、小沢の心境だろう。経験者の具体的な話を紹介するのが、いちばん手っ取り早い。
2002年6月19日、斡旋収賄罪で東京地検特捜部に逮捕された鈴木宗男は、その3日前、全日空ホテルで事情聴取を受けた。
「その取り調べは、セレモニーに過ぎなかった」。 鈴木は著書「汚名」のなかで、そう書いている。
鈴木は必死になって身の潔白を主張した。必要な資料も提出するし、証人を集めることも約束した。しかし、検事らは聞くだけ聞いて、あっさり切り上げた。
そのとき彼は「“事情聴取を受けた”という既成事実を作るために呼ばれたことを理解した」という。
「東京地検特捜部、鈴木宗男議員を事情聴取」というニュースが列島をかけめぐったのは言うまでもない。
否認し続け、4畳のコンクリートの独房で耐えた437日間にわたる拘留劇の序章となった。
検察と対峙しつづける小沢が、政治資金規正法の虚偽記載ていどで、あっさり事情聴取に応じるなどと、検察も考えていないだろうし、記者たちも同じだろう。
事情聴取に応じることは、メディアに「金権政治家」の派手なレッテルを貼られに行くようなものだ。
それでも、大手メディアが「事情聴取に応じるべきだ」と、検察側に立ったタテマエ論に執着するのは、なぜなのか。その深層をさぐるには、霞が関の東京高裁内にある「司法記者クラブ」をのぞかねばならない。加盟するメディアは朝日、読売、共同など新聞・通信13社と、NHK、日本テレビなどテレビ6社。担当範囲は、検察庁、裁判所だ。ふだん、記者たちは裁判を傍聴するか、地検幹部、すなわち検事正、次席検事による記者会見を聞いて、原稿を書く。取り調べにあたっている検事に直接、取材することは許されていない。ならば、記者はどうやって「生の情報」にアクセスできるのだろうか。
警察マターの殺人事件や交通事故なら、「現場」というものがある。そこに駆けつけた記者が状況を観察し、周辺の人々から聞き込みをすることができる。刑事顔負けの名探偵ぶりを発揮する事件記者もいて、新聞紙面には独自につかんだ情報が織り込まれる。ところが、贈収賄、政治資金規正法違反、脱税など政治家がらみの経済事犯には、「現場」がない。容疑をかけられている人物の周辺をかぎまわって情報を集めようにも、公権力のない者がカネの動きをつかむことなど不可能だ。せいぜい、いくつか噂話を集めるくらいだろう。
つまるところ、検察取材では「生の情報」など、ほぼありえないということだ。
記者にもたらされるのは検察幹部のフィルターを通した管理情報であり、しかも、その内容のほとんどは密室の取り調べで引き出した供述である。厳重に管理され、ひょっとしたら都合よく加工されたかもしれない情報でも、それに頼らなければ、検察捜査に関連する記事を書く手立てはない。しかも、その管理下情報を入手できることが、メディアのごく一部に過ぎない司法記者クラブ員のみに与えられた既得権である。
大手メディアが検察を批判できない構造が少しずつ見えてきたのではないだろうか。
司法記者クラブ員は、検察がいったん大きなヤマを手がけ始めると、揃って検察幹部宅に夜回り取材をかける。そして酒を飲み交わしながら禅問答のようなやり取りで、検察の捜査状況についての感触を探る。このような交流のなかで、記者の頭はしだいに検察の論理に染まっていく。検察幹部に気に入られることが、情報をリークしてもらうために大切なのだ。逆に、検察の気に入らない記事を書けば、その後は出入り禁止か、情報の遮断で日干しにされる。すべて検察の思うがままにメディアは操作されている。それでも、餌に食らいつき、記事を本社に送るのが記者の仕事だ。「原稿はまだか!」。矢の催促が飛んでくる。背に腹はかえられない。
逮捕のずっと前から、検察リークをそのまま書いて、狙われた人物を極悪人のように一般国民の頭に植え付ける作業に加担させられる。書かなければ、他社に出し抜かれて「特落ち」になり、本社デスクにダメ記者の烙印を押されてしまう。
検察が、捜索の場所や日時を記者クラブに事前に知らせるようになったのはリクルート事件のころかららしい。それまで続けてきた人権への配慮を捨ててまで、「正義の味方」が「悪の巣窟」へ乗り込むイメージづくりを狙ったのだろう。指定された時刻、指定された場所で、メディアのカメラが「正義」の軍団の勇姿を撮るべく待ち構える。これも、メディアが検察の宣伝マシーンとして、せっせと働いてきた例といえる。
記者クラブが、特定メディアの既得権であるとともに、官庁側にとっても世論操作に利用できる、もちつもたれつの仕組みであることは周知の通りだ。
それにしても、官庁の役人にまともにモノを言えず、ただただその論理に従う記者クラブは、「司法記者クラブ」以外にないのではないか。
司馬遼太郎は昭和元年からの20年間を、軍事官僚が「統帥権」という杖をふりかざして暴走した「魔法の森の時代」と呼んだ。
検察と司法記者クラブのつくる閉鎖的な情報空間が、「正義」の美名のもとに、政治を逮捕拘留自在の杖で動かす「魔法の森」と化すようなことがあってはならない。それこそ民主主義の重大な危機である。